
奈良井駅の改札を出て、右 北東方向になどらかに伸びる道路は旧中山道。
カーブがやっぱり
街道だなぁと、嬉しくなります。
駅の目の前は、お蕎麦屋さん。

木曽漆器も有名なようです。



東海道と違い、中山道はいまもなお、山あいを縫うように続いています。
中山道歩き。 やりたい事のひとつです。
奈良井診療所のあるあたりから、すこ~しだけ東へ向かうと、駐車場への案内板があり、向こうに線路が見通せます。
中山道奈良井宿と、中央本線との距離はこんなにも近いのです。



私が足を向けないわけがありません。。

風格ある古い和風建築が軒を並べる、中山道の中にポツリとある、これまた重厚な洋館。

昭和初期の建築で「奈良井診療所」として活躍してきましたが、現在は空家になってしまっているそうです。

葉っぱの上に、まぁるい黒い粒が。
虫でものってるのかと、そぅ~と。。近づくと黒豆のようなものが、ちょこんとくっついているのです。
何これ?
お花の好きな人なら、きっとご存知なのでしょう。


初夏に咲く花は、小さな花がの集まりのよう。
葉っぱからしても、紫陽花の仲間かなぁ。。

「はないかだ」
なんとも素敵な名前です。
家で育てられるかなぁ。
可憐な、小さな花が好きです。


本場で頂く、五平餅がこんなにも、おいしいとは。。感動的でした。
粒粒が気持ちいい食感として口の中にひろがり、甘味のきいたタレがそれに絡みます。
まるで、グルメ評論家のようでず、本当においしいものに出会った時は、自然とこんな言葉が出てくるものです。
五平餅ってこんなにおいしいんだぁ。。
どこかの屋台で食べたものは、粘りがありすぎたような気がします。
以前、高山で食べた、みたらし団子も忘れられないおいしさでした。
さらっとした食感と、タレの絡み。 あれはもう10年以上前になるでしょうか。
中津川の駅で「五平餅のタレ」というのをみかけて、わざわざ専用のタレなんて。。と思いましが、この地の人々には「タレ」にこだわりがあるのでしょう。
「さくら湯」のほどよい塩辛さが、五平餅の味をまた引き出してくれました。
奈良井宿には、たくさんの食べ物やさんがあります。
やっぱりお蕎麦が多いけれど、お昼御飯は電車の中でおにぎりを食べてしまいました。
よしずのかかった落ち着いたこちらで、「五平餅とさくら湯」




雨降りの平日だからひっそりとしているのでしょう。たくさんの色紙が掲げられていました。
有名なお店なのかなぁ。



そうなんです、折たたみの傘って、傘立に立たなくって困るとき多いのです。
小さな心づかいから、お店の方の心が見えてきました。
中山道「奈良井宿」
街道好きなら知らないわけはありません。
でも、まさか駅からこんなに近いとは思っていませんでした。
駅を出たところが中山道。奈良井宿です。



子供の頃に「ひらかた」=「遊園地・菊人形」=楽しい所 と植えつけられてしまったから、枚方市という行政区があり人々が生活しているという事が未だに信じられずにいます。
子供の頃に植えつけられてものは、恐いものです。
枚方が「枚方宿」という歴史を持っているなんてのは、ますます理解が苦しい。。
でも、「枚方市駅」を降りると、どうどうと「枚方宿」と掲げられているのです。


三条で終わっているはずの、東海道がその先の「枚方」まで続いてる?
実は、京都から大阪へ通じているのが「京
街道」
大津宿から三条へ向かう途中、追分で南西へと分かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿と延長されています。
滋賀県に生まれ育ちながら、知らない事、場所が多すぎると最近特に思うようになりました。
今回も、高宮のパン屋さんへ行こうと、近江鉄道高宮駅から中山道へと出たのですが、高宮宿の風情は素敵でした。
ローカル線旅で途中下車すれば、風情ある町並を求めて歩く私ですが、滋賀県にこんな所があるとは知りませんでした。 町おこしのために綺麗に手を入れすぎた町並はあまり好きでない、なるべくそのまま 自然に残った町並が好きです。
パン屋さんを求めて出てみた中山道は、私が望む町並でした。
駅前をほんの数分歩いただけです。 こんな風景が続いていました。

この道幅と、緩やかなカーブが
街道らしさ。

伊庭善の角を曲がり、江若鉄道の踏切だった所を過ぎるとすぐにお地蔵さんが並んでいます。

浜大津からのこの道路、北保の郵便局でカーブするまでの数メートルだけは交通量の多い所でした。
ろくに歩道もないこのあたりを、長等幼稚園まで友達と二人で歩いていたのですから今考えると恐ろしいもの。
それは、さておき、このあたりを生活道路にしていた人ならこの風景は印象深いはず。
道端の一段下がったところに、お地蔵さんが並んでいて、いつも綺麗に花が飾られていました。
その横が北保の自治会館。

いつの頃から建て直されたのでしょうね。
どこにでもある自治会館ですが、ここに珍しいものがある事を知ったのは、1年半前の秋
→ 「仏女ブロガー」滋賀県立近代美術館で開催されていた「祈りの国、近江の仏像-古代から中世へ-」
で この北保自治会館に 日本最古級の鉄仏があるという事。。
あそこに? 会館の中に? 弥勒堂があるという事自体驚きでしたが、地蔵盆にしか開かないようなあの会館にそのような貴重なものがある事が驚きでした。
さすが、三井寺のお膝元。。さすが大津百町です。
→
第25回 日本最古級の平安時代の鉄仏の公開について(大津市歴史博物館) 
北保の会館を過ぎてしばらくすると、静かないわゆる
街道らしい町並みが続きます。
まさしく、私の家の前の通りになりますが、変わらぬ静かな風景が残っています。
ここは、浅野米穀店だったところのはず。
ここのおにいさんが、肩にお米載せて配達してきてくれてました。
このように、瓦屋根のある路地もちらほらあるのが大津百町ですが、借家などの場合このようになるのでしょうか?
アオイ鶏卵店、横田食堂 回転焼も売ってる小さな食堂 林菓子店 荒川醤油店 岡本酒店 中島理容室 毎日新聞販売所 染物屋さん 宮崎駄菓子店 多賀化粧品店(さかえや)竹内牛乳店 石川牛乳店 ちよっとした商店街かと思うくらいにお店が多かったのは やっぱり
街道の名残でしょうか。

比較的お店が多く賑やかな通りを過ぎしばらくすると、大きなカーブがあります。
このあたりから、町並みが変わります。




障子紙を貼った玄関戸は、昭和30年代の祖母の家のようですが、今でもこんな感じが残っているのは、全国的にも珍しいのではないでしょうか?
勿論、夜は木戸が閉められるのでしょうね。


「熊野川」

熊野川の起点は御陵町ですが、途中は暗渠で不明だそうです。
この川が「観音寺町」と「尾花川町」の境です。

橋を過ぎ、更地になった横の路地の奥にお寺があるのを発見。
尾花川にお寺は、ないと思っていましたが、路地の奥できっと気づいてなかったのでしょう。。

これが、また映画のセットかのようなお宅。大津百町にこのような佇まいのお宅がある事、大切にしないといけません。
尾花川という町は農業と、漁業の町だったと聞きます。
この気持ちのいい通り、位置的に琵琶湖岸に抜ける通りだったのではないかと思います。






いい雰囲気の町並みです。このあたりが開発される兆しは今のところないので、このまま続いてくれるといいなぁと思います。

そして、有名な私の出身中学。
なかなか写真も撮りづらくなりました。
そして北国海道は少し先で、現在の国道161号線と合流します。。
自分が生まれ育ち歩いていた道が歴史ある北国海道であった事を今更知りました。
誰に教えられた覚えもありません。
誇りに感じられる郷土は、嬉しいものです。

北国橋を渡り、最初の交差点を右へ折れます。
交差点の西角には「大津湯」という銭湯があり内風呂のなかった私は、大津湯へ通いました。
銭湯への行き帰りは、母に学校での出来事を話す時間でした。
次の角までほんの少しの距離、どうしてここで道が折れているのか不思議です。
街道らしい、細い道路ですが、昭和30年代から京阪バスが通っていた事から、昔から重要な道であった事が伺えます。

昭和の面影を残す建物が並んでいます。
ガラス戸4枚の建物は、衣類を売っているお店、肌着や靴下が並んでいました。
子供の頃 運動会と言えば「地下足袋」を履くものでしたが、母はここで買ってくれました。
この向かいには、貸布団店、薬局、バーが並び、今思えば、海道全盛期の名残からお店が多かったのかもしれません

海道沿の京阪電車の脇道につく、線路の向こうの、不思議な空間に同級生が住んで居て、面白そうだなぁと思っていました。

線路を越えて左が「若山医院」 右手には4歳位までかかりつけの小児科「光吉医院」がありましたが、今は浜大津に移転しています。
あの頃の医院は、普通の民家をそのまま使っていて、靴を脱いで畳の部屋で待ってという形が殆どでした。

「伊庭善」の角が北国海道への角。
近所では少し大きななんでも揃うお店でした。
「ハウスの焼き飯の素」を一人で買いに行ったのは「はじめてのおつかい上級バージョン」だったよなぁ。
そしてここは江若の踏切があったところでした。
→
江若鉄道 三井寺下駅この碑は当時からあったのでしょうが。。。

江若の線路にまぎれていたか、踏切番のおじさんの小屋に隠れていたか。。
でも廃線跡も気づきませんでした。。
「山王唐崎道」は坂本方面への道の事、納得出来る案内板です。
大津百町の「観音寺」に住んでいたのは20歳まで。その後 大津南部に在住。
大津に生まれ育っていますが、子育てに追われていた15年位は大津百町にブランクがありました。
一人で出かける時間が出来、歴史博物館等に足を運ぶようになって生まれ育った町を見て驚きました。
想像もしてなかった大きな道路が出来ているのです。
「ここはどこ?」 大きな道路沿いに立ってみると自分の生まれ育った町がまるで始めて訪れるような場所のようでした。
今日、ご紹介する 北国海道。 北国海道が疎水を横断する道路、昔の面影が間もなく完全に消えようとしています。

叶匠寿庵さんを右に見て進んだ突き当りを右に曲がります。

いきなり、建設中の住宅。 道路から下がる為に、バックして新築されているのが一目瞭然。
ここには、頭のいい友達の家がありました。
この先、しばらく昔のままの風景が続いてくれます。

少し歩くと、右にアーケード商店街の入り口 ここから 長等町商店街 菱屋町商店街 丸屋町商店街が 中町通に続きます。
母は特に菱屋町商店街で買物をしていました、私の乗った乳母車の中に、お野菜・果物・お肉・お魚。。どんどん積み込まれていって少しずつ私の居場所が少なくなってくる。。
洋裁をしていた母は時々、磯谷菓子店の角にあった出店のようなところで糸やゴムを買っていました。
乳母車に乗り、かつ妹が居ない頃です。。 2歳3歳。。 どうして昨日の事のように映像のように、あの頃が浮かんでくるのか不思議ですが。。。

左に、朱の「長等神社」の鳥居が見通せて、大津百町では美しい風景のひとつ。
長等神社にある「馬神神社」は北国海道起点の札の辻から移転されたものだという事です。
この道の角には「三上さん」という大きなお饅頭屋さんがあって、幼い頃はお墓参りに行く前お供えのお饅頭を買っていました。 ひとつひとつ、お箸でお饅頭をつかんで包装されていく様子が面白くって、よく真似して遊んでいたものです。
ここに案内版があります。



街道沿らしい、昔の面影を残っています。
このあたりに同級生の「林ガラス店」あったけど、もうないなあ。
このあたりの時計屋さんで見ていた ディズニーの赤い腕時計。。伯母さんが買ってくれて嬉しかったなぁ。
結局 勿体無くってロクにはめてなかったなぁ。。


「碑」が残されているあたりから、道路は拡張されています。
ここはどこ? ここは何?。。です。。 面影が全くありません。両側に拡張されています。


疎水を渡る「北国橋」

この橋も子供の頃は、緑の細い鉄で出来たような簡易な橋でした。勿論橋幅も狭く、交通量も少なかったと記憶しています。

京阪電車の鉄橋、三保が崎橋 と続き 先は琵琶湖です

反対側は水量を調整する石垣の水門、これは産業遺産として見応えがあります。
三井寺山門に続く大門通と交差。
ここが、北国海道の変化したポイントのひとつでしょうか。
大きな道がまっすぐ続いていますが、子供の頃は行止まり。
行止まりというよりは、江若鉄道の「三井寺下駅」正面でした。


ここで、北国海道は右へと折れます。
大きな道路は三井寺下駅だったところを過ぎ、江若鉄道の線路だったところをさらに進み、イオン西大津店あたりへと続く交通量が多い幹線道路とととなりました。
信じられない変化です。。

北国海道札の辻起点~ ひとつめの角まで、ほんの少しの距離です。
ほんの少しの距離ですが、多くの記憶があるので書き記しておきましょう。。
自己満足? このブログを見て「そうそう」と思い出してくださったり、密かに何かの研究のヒントになったりしたら。。嬉しいです。。
不思議と、ピンポイントの場所のピンポイントの時代の記事を書くことで、同じ時を過ごした人と知り合いになれたりする事も多いものです。
京津線の電車通札の辻の角を西に折れると、道幅はあるものの交通量はかなり少なくなります。
目につくのは「阪本屋鮒寿司」のお店
明治2年にこの地に分店として創業したとHPに書かれています。
「弊店のご案内」
ただ、私の記憶の中にこのお店はなく、幼稚園に入る前位に「チェーンストア」という赤っぽい色の大きなお店があった事を覚えています。 現在のスーパーのハシリでしたでしょうか。。祖母にお人形の形をした袋?を買ってもらいました。
同じく「コマストア」というスーパーが菱屋町商店街の角に出来ましたが、確かチェーンストアの方が早かったと思います。
チェーンストアの記憶のある方いらっしゃいます?

その向かいあたりには、銭湯がありました。

北国海道、西に向かって歩いて左に折れた正面は日赤。
現在は高層の立派な建物になっていますが、3歳4歳の頃は二階建位で 正面玄関はこの正面。アプローチがあって受付でした。
院内はとても暗く、廊下に沿うように長椅子が並び、所々に畳敷きの待合所もありました。
小児科の診察室はベッドが二つ並んでいて、先生も二人並んでいたはず、今のように個室診療ではありませんでした。奥の部屋が注射の部屋で、行きたくなかったなぁ。。
耳鼻科は、先生が3人~4人並んでいてこれも個室診療ではなかった。。
お薬は広い部屋で待っていたし、あまり長い時間になると、廊下を曲がったところにある売店で牛乳を買ってもらっていました。。
特に病気がちというほどではなかったはずですが、両親が神経室だったので病院通いをしょっちゅうしていたように思います。
これもまだ、二年保育の幼稚園に通ってなかった頃の記憶です。
画像手前の赤いシェード屋根のある所は、お花や果物を売っているお店でした。 日赤へお見舞いへ行かれる人のためのお店だったのでしょう。。
その奥に新しい建物が建っていますが、少し前は「やきいも屋」?(笑)さんでした。
怪しげな、面白い風情のあるお店だったのに、ここ数年のうちに無くなってしまいました。
過去記事 →
おおつの「もいきや」さん

ここは、二年保育(4歳~5歳)の時に通った「寿(ことぶき)幼稚園」
正面に建物が見えていますが、当時は何もなく、男の子達は、ペダルを踏んで動く鉄製の車でこの門の所まで出てきて遊んでいました。
仏さんのおられる部屋は暗く、でもそこで先生がよくお話してくださいました。
「いつも ののさま が後ろから見ておられるから、悪い事しないでいい子でいないといけません」と 教えられました。 幼い子、特に真面目で記憶力確かな私のような(今じゃ記憶力はゼロになりましたが)子供には、その「教え」は影響力が強く、中学、高校位まで「ののさまが後ろから見ている」と。。いう潜在意識は消えませんでした。
それが良いか悪いか。。 私の人格形成にどのような影響力があったのかはわかりませんが、「幼児期」と言うのは怖いものです。。
(北国海道の記事を書きながら、いろんな事描いていますが。。。)

幼稚園を過ぎてから西へは、殆ど歩いた事なかったと思います。
この喫茶店はいつからあったのか。。 結構 古そうなので一度入ってみたいと思っています。

このあたりから少し道が細くなり、海道らしさが漂っています。
確かこのあたりに、眼科のお医者さんがあったと記憶していますが、ご存知の方おられますでしょうか?

進行方向から振り返った写真です。

西へと進んで突き当たります。

突き当たる少し手前右に、有名な「叶 匠寿庵」があります。
今でこそ、全国区になりましたが、昭和33年にこの地で創業を始められました。
→
叶匠寿庵 長等総本店 市役所の観光課におられた方が、職人を雇ってご商売を始められた。。と父は言っていました。
軌道にのりはじめたのは、10年後位だったのじゃないでしょうか?
両親は、ちょっと 改まった場所への手土産をここで購入していました。

北国海道北へ折れる角 少しだけ南に「
花登筺生誕の地」の碑があります。
前回の記事で「北国海道」と記しました。
単純に考えて、昔の
街道ですから「北国
街道」でしょ? 間違ってるんじゃないの? と思ってしまいます。
自分自身の中で理解を深めるためにも、少し整理します。
「北国海道」
大津の礼の辻で東海道と分かれ、湖岸沿いに衣川(大津市)、和迩(志賀町)、木戸(同)、小松(同)、の各宿駅を経て高島郡に入り、河原市(新旭町)、今津(今津町)の両宿駅を経て海津の宿駅に至り、海津からは七里半越えで 北国海道は「西近江路」と別称され、「北国脇往還」とか「西国街道」とも呼ばれました。剣熊関(マキノ町野口)を通り、山中(敦賀市)-疋田(同)の両宿駅を経て敦賀市に至っていました「北国
街道」
中山道の鳥居本宿(彦根市)から琵琶湖の北東岸を通り、栃ノ木峠を経て越前に至っています。 幼い頃を過ごした家の前、生活道路が「北国
街道」であると聞いたとき、へ~ 木之本まで続く道なんだなぁ。。 と思ったものですが、「北国
街道」ではなく「北国海道」なのでした。
「札の辻」を基点に琵琶湖の西を経て敦賀に至る道が「北国海道」で 平安時代の頃から既にあったそうです。
今年2月に
「石坂線がつなぐ 大津のまちの物語」に行った時、樋爪歴史博物館館長さんの講演の時に頂いた資料に、
街道地図がありました。


江戸から続く東海道は、大津の札の辻で南へ折れます。
直進しているのは「北国海道」

この交差点が「札の辻」
線路は京阪電車京津線 左・浜大津方向 右・三条方向

マンションの並んでいる方向が東海道。
ここで、クリーニング屋さんの方向に折れて三条へと向かいます。
ちなみにこのクリーニング屋さんの位置には、京阪電車京津線「札の辻駅」終着駅があったそうで、この「クリーニング屋さんの基礎部分は当時のもの」と大津百町のご老人が話しておられるDVDがあります。

「旧東海道」の看板が見えますが、こちらはもう「北国海道」 山に見えるお寺が三井寺です。

道路工事中ですがこの建物の前に説明板と道路元標があります。





幼い記憶では、道路元標のある後ろの建物で、母は機械編みを習っていたような気がします。
またこの建物の前で、母は友達と出会い立ち話を長い間していました。「手ぇ取ってごめんなぁ」と言って友達はどっか行った。。 妹が居ない時でしたから、やはり3歳の頃の思い出です。。
「北国海道」。。
その存在は知らなかったけれど、地図を見れば生まれ育った家の前も通る生活道路。
後日 少し歩いて見ました。。
東山道をめぐる攻防の地を訪ねて
【柏原宿】

柏原宿には、各戸に提灯がぶらさがり、
街道筋、宿場町らしさが漂っています。
規模の大きな宿場町だっただけあって、その距離も長いもので雰囲気も感じられます。
東山道をめぐる攻防の地を訪ねて
【柏原宿歴史館】
柏原宿は中山道60番目の宿場で、もぐさが特産品で、最盛時には10軒以上の艾屋があったそうです。

伊吹もぐさ亀屋佐京商店の分家である松浦良平氏の住居として大正10年建てられた建物が、「柏原宿歴史館」です。

玄関と、その奥の間だけは少し改装されていますが、住居部分は全く手を加えられていないのに100年近くたった今も、堂々としっかりした構えのままです。

縁側(廊下)の杉板は9メートル。

縁側の上には丸桁が使われています。


硝子も当時のもので、凸凹があったりするのですが、とても固く強固な感じがしていました。


畳はイ草の良いところだけを使って、中央で継いであります。畳の中央が黒くなっています。
一般人の感覚では、全面同じ色の方がいい畳のように思いますが、中央が黒くなっている畳が「いいもの」だと言う事はこちらではじめて知りました。




亀屋佐京商店で忠信を尽くした番頭福助さんは、福助人形のモデルとなったといわれ二階には「福助さんの間」がありました。
また、皇女和宮様が、将軍家茂との結婚のため江戸に向かう途中、柏原宿に宿泊されたそうで、そのとき宿泊したご一行の人数は、4,144人、使った米は1,500俵と伝えられています。そのための準備や当日の装備は大がかりなものでした。人足1万6千人うち馬士千人、馬千匹、薪4千5百束、わらじ千足などを準備したという記録があり、その時の様子も展示されていました。
公式HP
「柏原宿歴史館」滋賀県観光情報
【柏原宿歴史館】所在地 滋賀県米原市柏原2101番地
アクセス 公共交通機関 JR東海道本線「柏原駅」下車 徒歩 10 分
車 名神高速道路関ヶ原ICから10分
北陸自動車道米原ICから10分
駐車場 普通車15台
その他 お車でお越しの場合は、B&G海洋センター駐車場へお停めください。
料金 大人300円(250円)
小人100円( 50円)
※( )内は、20名以上の団体料金
営業時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
定休日等 月曜日(祝日の場合は翌日)
祝日の翌日(祝日が土・日曜日の場合は火曜日)
年末年始(12月27日~1月5日)
お問合せ 柏原宿歴史館
TEL:0749-57-8020
FAX:0749-57-8020
東山道をめぐる攻防の地を訪ねて
【醒ヶ井】蓮華寺からバスで10分。醒ヶ井に到着。


醒ヶ井は、町の中心部に清流地蔵川が流れる、中山道61番目の宿場町です。

梅花藻の咲き始めた醒ヶ井にはたくさんの人が訪れていました。
子供の頃「醒ヶ井」と言えば、養鱒場だったのに、いつの頃からか、梅花藻と町並の方が有名になりました。
「梅花藻」は キンポウゲ科の水生多年草で、清流でしか育ちません
7~8月ごろに、梅の花に似た白い小花を咲かせることから『梅花藻(バイカモ)』の名が付きました。
夏の最盛期には直径1.5cmほどの愛らしい花が一斉に川面から顔を出します。
何度か訪れた事がありますが、写真撮るのが難しい。。
いえ。。始めてみたときは、あまりの小ささに驚いて「ゴミがついているみたい」なんて思ったものです。
わかりますかねぇ。
高級カメラと、技術がないとうまく撮れないのかもしれません。。


水に湧き出ている 井醒の清水。 「醒ヶ井」の地名はここから来ていると言われています。

絵筆を走らせている方々もたくさんおられました。

地蔵川には、淡水魚「ハリヨ」も生息しているのですが、これも小さい。。なかなか見つける事ができません。
地蔵川の梅花藻、ハリヨの画像は検索すると、綺麗な動画などもみつけられますので、そちらでご覧くださいませ。。


おいしそうなラムネ。
以前訪れた時は、スイカが冷やしてあったり、子供が水遊びしていたり。。
涼感溢れる風景でした。


梅花藻ソフトに、梅花藻コロッケ。 どんな風に使われているのでしょう?


道端では、地場野菜が売られていました。
いたちきゅうりに、ぼっちゃんかぼちゃ。。 はじめて聞きました。

ヴォーリズ設計の旧醒ヶ井郵便局は、資料館として使われています。。
2012年7月21日(土)~2012年8月5日(日) 19:30~20:30 梅花藻はライトアップされます。
「梅花藻ライトアップ」夏の終わりには、百日紅の花が咲いてますます彩りより気持ちのいい風景となります。
よろしかったら過去記事をどうぞ。
地蔵川泡子堂謹製「六方焼」旧醒ヶ井郵便局滋賀県観光情報
【地蔵川のバイカモ】所在地 滋賀県米原市醒井
アクセス 公共交通機関 JR東海道本線「醒ヶ井駅」下車 徒歩 5 分
車 北陸自動車道高速道路、米原ICより国道21号を関ヶ原方面へ約5分。JR醒ヶ井駅前の駐車場より徒歩約5分。
お問合せ 米原観光協会
TEL:0749-58-2227
FAX:0749-58-1197
常楽寺から石部駅に向かってバスに乗っている途中、近代建築が目につき、途中下車。

旧淡海銀行石部支店 昭和2年建築。
夕日を受けて、輝いています。



前の道は、旧東海道。
すぐ先の交差点は高札場だったようです。



そのまま、西へと歩けば旧東海道の名残を色濃く残す風景が続いていました。


ここにも「神仏います」
お家とは、別に門構えと参道があるようです。




東海道五十三次・京都三条~日本橋。
現在の東海道新幹線・東海道本線のルートとは異なり、草津からは現在の草津線・関西線のルートを通ります。
石部宿は日本橋から数えて47番目の宿です。
旧東海道に思いを馳せながら、草津線に揺られ、湖南の町を歩いて、小さな神仏と出会う旅は、のんびりのどかで素敵な時間です。。
深まり行く秋、傍らの祠の上にも色づいた葉が舞い降りてくるかもしれません。。
秋。。「神仏います近江」
神仏います近江江のふるさと滋賀「仏女ブロガー」滋賀県観光情報
地蔵坂を登り突き当りを左へ折れてみます。こちらには特に目立った店舗などはありませんが、
街道らしい風景を心地よく感じる事ができます。


木ノ本駅から地蔵坂を登り、正面に木之本地蔵の見える角「あたらしや洋品店」さん。
札の辻跡です。

右に折れて歩きます。