「江若の痕跡さがし」申込者が多く抽選になったそうですが、運よく当選。

木津学芸員さんの ジオラマの前での説明。
このジオラマは、実に忠実に再現されていて、形のない物を立体的にとらえる事ができるので何度も何度もあらゆる角度から見せて頂きました。
展示内容については、後日記事にさせて頂きます。

赤線が江若鉄道
黄線が京阪電車(図面右上まで走っていたのですが実際中央分離帯のようになっている所のどちら側を走っていたかわからないので、記入していません。)
青線が北国海道
(北国海道に関しては過去に記事にしています。 →
東海道と北国海道の分岐点「札の辻」 から、6回シリーズ )
今回歩いたのは、江若鉄道沿線、地図手前半分位と、その先です。
写真中央より心持右下のあたり。車輌らしきと、何本かの線路らしきを見つける事ができます。(右サムネイルクリックで多少大きくなります)
線路から、右の北国海道への短く細い白い箇所。


現在はこのような形になっていました。
左側の住宅を見てみましょう。
玄関が広場に向かっています。
「ここは、北国海道から、江若鉄道の三井寺駅への通路だったことがわかります」と、木津さんの説明がありました。
そうだったのか!!。。 ここは広場ではなく通路だったんだぁ。。
始めて知る、衝撃の事実です。
私の家はこの広場のすぐ近くでした。
当時はフェンスも何もなく、突当たり(写真では手前)にはいつも江若の電車が停まっていて、構内を見渡せるような感じではなかったと思います。
もっとも、父からは「江若に近寄ったらあかん、危ない」と強く言われていましたから、北国海道沿から覗き見るような感じでしかありませんでした。
江若の駅への通路だったというものの、恐らくそのような使い方をしている人は皆無に等しく 大人でさえ「広場」という認識だったのではないてじょうか。
父は、ここに車を置いていました。いったいどなたの土地だったのか江若のものか、公共のものかわかりませんが、どこに車を置いてもいい時代だったのでしょう。
男の子達は此処で走り回っていましたし、地蔵盆の時にはテントが張られたりしていました。
お祭の時には、出店が並んでいたのを覚えいます。
なんの疑問もなく「広場」だと、今まで思い続けていた場所が 通路だったとは目から鱗状態でした。
初日に企画展を見に行って 三井寺下駅構内のジオラマをしげじけと見て、疑問に思ったのは、当時、江若で堅田へ通勤していたという父は、いったいどこを通って駅まで行っていたのかという事。
三井寺下駅正面から入るのには、かなり大回りをしないといけません。
母に尋ねると、「家の前の広いとこ あったやろ あそこ すっすっと通って行ってはったで」
「え? あんなとこ通って?」
このような会話をしたのは、今回の野外講座のつい2.3日前の事でした。
「あんな とこ。。」
そう 父は 「あんなとこ」を通っていましたが、それは別に悪い事ではなかったようです。
木津さんがおっしゃる通りの使い方をしていたまでの事だったのです。。
三井寺下駅、家の前の広場の新たな事実との出会いがありました。
歴史博物館を出て、三井寺下駅構内と思われる場所に入ると早速。。


電柱に「江若」のプレート。
いわば、電柱の住所みたいなものなのですが、かつて「江若」の敷地、周辺であった事を物語っています。

道路になっている所が、線路だった所です。


空地の前方にゴロンと転がっているのは、江若の枕木?
昭和43年の写真の蔵をよく見てください。

今も同じ蔵が残っています。

線路跡の両端を注意深く見ていると あちこちに境界を示す石標を見つける事ができます。
近江の「お」=「O」 若さの「わ」=「W」 で 丸の中にW これが江若のマークです。


この写真ではちよっとわかりにくいのですが、写真右側の線路沿いに工場によくある連続した片折れ屋根が見えます。
古い写真と同じように今も残っていました。





このあたりは、三井寺下駅正面の空地で、この場所でも地域の方々の盆踊り大会が行われていたとの事。
私の知り合いが、野球をしていたというのも、このあたりかなぁ。


ここは、ガソリン給油所があった場所。
脇へ入り、さらに奥。


参加者さんから教えて頂いた駅跡。 ホーム跡かなぁ。


ここにも、当時の写真と同じ蔵が残っています。
ここは、また私にとって、なんとも懐かしい場所。懐かしい写真です。
この踏切は殆ど毎日通っていました。
「アサヒ靴」の看板のあるお店には、所狭しと雑貨が並んでいましたが、なんでも揃うお店でした。


ジオラマではこのように制作されています。
踏切番のおじさんは2人おられ、制服制帽姿だったと思いますが、電車が来るたび遮断機を下ろし、手に赤白の旗を持ち白旗を振っておられました。

黄色い旗の後ろから、電車が出てきたり、入っていったり。。
信号下の北保町の自治会館は当時のまま。
余談とです。仲良しの友達の住む町の自治会館でしたが、最近 木造菩薩立像、鉄造弥勒如来坐像を所蔵しておられるという事を知り、歴史深い町である事を知りました。

疎水に架かる、鉄橋です。
子供心にも、ここを走る江若の姿が一番好きでした。

今も残る、煉瓦の橋台。


江若浜大津駅付近から、三井寺下駅方向を見た写真です。

道路のカーブの仕方は殆ど変わっていません。
ナショナルの塔屋部分に、今も何やら塔があるのは愛嬌でしょうか?(笑)
線路脇の小さな家には、まだ今も残っているのもがあります。

幼い日に当時を過ごした者。
「勝手知ったる。。。」場所だと思っていましたが、新たな発見が多数ありました。
あの頃をいつまでも、風化させてしまわないためにも、「痕跡」はいつまでも残っていて欲しいものです。
過去の江若関連記事
→
ありし日の江若鉄道→
廃線から40年の江若鉄道 <近江今津駅>→
江若鉄道 ボンネットバス資料館→
江若鉄道廃線跡→
江若鉄道 三井寺下駅→
京阪電鉄「浜大津駅」 ジオラマ