「野洲のおっさん」 ?
なんやそれ?って感じですね。

殆ど見る事ないのですが、びわ湖放送を見ていると 「アミンチュ」「野洲のおっさん」「知ったかぶりカイツブリ」など、面白い歌やキャラクターが登場します。
なんでも「滋賀のまちおこしムーブメント」だとか。
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アミンチュプロジェクトこの「野洲のおっさん」が、びわ湖一周行脚をしたそうで、大津PARCOで写真展が開かれています。
その初日、「野洲のおっさん」本人?が登場。。 遭遇させて頂きました。。
「おっさん」と「カイツブリ」を合体させているのでしょうか?
詳細は検索して調べてみましょ。。

石山寺方面行ホームの上屋に、いい雰囲気が出ている「膳所本町駅」
駅と周辺道路との関係もまた、面白いのです。

駅 東側に並行するように走っている道路。

そのまま 軽く交差するように線路を横切ります。

渡り切って振り返る。。


さらにその道路に細い道路が交差しています。
線路の上の「スクランブル交差点」と言ったところでしょうか。


線路上のスクランブル交差点に伸びるホーム裏側に残る二層の石垣、これはこの路線の歴史を物語るものなのでしょう。
こちらは、改札を出て、真っ直ぐ琵琶湖方向への道。膳所城址公園に通じています。



その反対側。このあたりからはプリンスホテルが見え隠れします。

膳所本町駅は魅力いっぱいの駅です。。

「膳所本町駅」
琵琶湖岸に向かって歩けば、膳所神社、膳所城址公園、山手に向かって歩けば膳所城下町の面影が残る、落ち着いた町並みの一角にある駅です。
また、石山坂本線の中では一番、「そのまま」が残る駅ではないでしょうか。
子供の頃から変わってない駅は他にもたくさんありますが、石山方向へのホームの上屋は「いい感じだなぁ。。」と見るたび楽しませてもらっています。



木の味わいと、骨組みに歴史を感じます。
一体、いつからなんでしょう。。


坂本方面行ホームもローカル線の雰囲気がよく出ています。
石山坂本線で好きな駅のひとつです。
駅周辺もなかなか面白いので、次回に。
鉄道好き、近代建築好き、ついでに廃線跡探訪好き、貨物線好き、工場萌え系(笑)と細部まで趣味が一緒で鉄道旅行も何度も一緒にした事のある友達に誘われての「マンドリンコンサート」
ん? いつもの二人とは趣向が違うけど。。
友達からチケットを頂かれたと言う事でお誘いを受けました。

見事な音色でした。
日々の殺伐とした生活? とは違い、穏やかな時間が流れました。
CD等で聴くのとは違い、会場で目でみながら聞くというのも、また違った楽しみです。
どのパートをどの位置の人が、どのような表情で演奏しているか。。 あの部分。。この部分。
この人のソロ。。
指揮者の動き。。
長らくこういう時間の過ごし方忘れていました。
全身でノリノリになるコンサートではなく、ゆったりと音楽を聴く。。
こんな時間は素敵です。
「マンドリンコンサートに行かない?」と誘われて、耳に留まったのは「マンドリン」
あれは、小学校4年位の時でしたでしょうか。学区の文化祭が小学校の体育館であったのだと思います。
その当時から、一人で行動する事に抵抗はなく(笑) 何故か一人で行ってました。
ステージで何をやっていたか記憶にありませんが、印象的だったのは、ノートルダム女学院のマンドリン演奏。
なんて綺麗なんだろぅ。。 重なる高く震える音色に感動しました。
なんの曲だったかすら、覚えてないけど。
「マンドリン」と聴いて、あの日が蘇りました。
マンドリンの音色は記憶通りでした。
小学校の5年6年 特別に音楽が得意でもなかったのに、何故か任意での「音楽クラブ」に入り、放課後、早朝、夏休み。。と練習に励みました。
演奏であったり、合唱であったり。
自由に遊びたい盛りの私が何故、休むことなく続けたのかは不思議。
でも、あの時 楽しかったのは、みんなでひとつの音を作るという事。
パートが重なりあって、ひとつになる楽しみがあったんだと思います。
また、コンクールのためにステージに立つ時のライトのまぶしさの中の緊張感も忘れられません。
あの時の堀野先生はどうされているでしょ?
藤沢先生は程なくお亡くなりになられたと聞きました。
友達のお誘いから、小学校の思い出が蘇りました。
「三井寺駅」の近くに住んでいた私は、「石山寺駅」のまだ南にある、おばあちゃんちに行くため、年に何度か京阪電車に乗っていました。おばあちゃんち。。という。。楽しい場所への架け橋でした。
物心ついたら京阪電車に乗っておばあちゃんちに行く時が楽しくて仕方なかった。
車窓から見える景色は、少しずつ大きくなってくると楽しみのひとつとなり、「中ノ庄」の駅前の建物に惹かれていました。
もしかするとこの頃が、鉄道と近代建築の最初の出会いだったのかもしれません。

駅正面に空に向かってのびる十字架の塔屋が見えていました。

民家の間を縫うようら走り、車体を傾けてホームに入ってきます。

そしてこのホーム。 弧を描きながら、徐徐に幅が狭くなっていっているのが面白いのです。


民家の屋根瓦にくっつきそうな、所まで来ると、立ってられない?

向こうに見えるのは、反対方向へのホーム。


今年、2月に、いつも気になっていた駅を、三つ降りてみました。
意外に、改めて写真を撮っていない事に気づきました。
湖岸ラインシリーズ最終回。
湖岸ライン⑥の「大橋堀」
ここから、手前方向に大橋堀の小橋が架かっていましたが、その先 細い路地が伸びています。

路地を反対側からの写真。
この界隈は、通称「袋町」と呼ばれていました。
真ん中あたりで「橋本町」から「中堀町」に変わると言う不思議な路地。(いずれも旧町名)
現在は その「境」を示すものは何もありませんが、当時 町の境に木戸があって、どちらから行っても通り抜けが出来なかったたそうです。
まるで、袋のように底が閉じられているという事に由来するのでしょう。
庶民の町に木戸があるなんてちょっと意地悪っぽいかな?
通称「袋町」

少し前に通った時には、こんな駐車場はありませんでした。
更地になり、駐車場へと変わったこの場所。
「通称」が引き継がれていました。
「湖岸ラインシリーズ」 途中 割り込みシリーズがあって、ずぅっと見てくださっている方にはご不便をおかけしました。
タグづけがうまくいきません。FC2に問い合わせましたが、要領を得ないのでINDEXをつけました。
かつての湖岸ラインには興味があります。
折を見て 他の地域も探訪したいと思っています。
【琵琶湖岸ラインINDEX】
大津の琵琶湖岸には、
小舟入の常夜灯の他にもうひとつ常夜灯があります。
小舟入が一度も移転せずに、その時からじっとしているのに対して、「石場の常夜灯」は何度も移転しています。


もともとは、赤い矢印で示した場所、現在の大津警察署の位置にありましたが、今は黒い矢印で示した琵琶湖文化館横にあります。
地図に数字の入っている部分は、湖岸ラインの遺構のある場所。 琵琶湖に向かって埋め立てされたのは、1968年(昭和43年)の琵琶湖博覧会開催前ですので、かつての湖岸ラインは比較的わかりやすくなっています。

現在の琵琶湖岸の遊歩道の一角に、ポツンとあるのがなんだか寂しそう。唐突に存在している感じがします。

意外に、こういった歴史的なものを撮っている人は多く、この写真を撮ったのは2月の寒い日でしたが、やはりカメラを持った方がおられました。
ごめんなさい、常夜灯の大きさをわかって頂くのに丁度よいかと。
高さは8.4メートルあります。
1845年(弘化二年)鍵屋傳兵衛・船持中らの発起によって建立。近江・大阪・京都・尾張等からの寄進者名が刻まれています。


琵琶湖岸の夕暮れ時に常夜灯が灯る風景はどんなだったでしょう。
一艘、二艘。。と 舟が帰ってきていたのでしょうか。。
【琵琶湖岸ラインINDEX】
思い描いた膳所城址周辺の湖岸ライン。これより南については地図の収集もしていませんでした。
ただ、以前訪れた「蘆花浅水荘」の御当主さんは、庭続きに琵琶湖だったとおっしゃってました。
現在の地形との関係がわかりやすい地図はこれになりますでしょうか。
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大津のかんきょう宝箱 蘆花浅水荘 何度かお邪魔する機会があったのですが、写真を撮らせて頂いたのは2006年の見学会の時だけなのですが、いくら探してもその時の写真が見つからず。。
過去記事にリンクします。
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国重要文化財「蘆花浅水荘」見学会
琵琶湖と対岸を借景にしたというこのお庭。
手前にある葦の部分まで琵琶湖で、舟を浮かべていたという事です。
このさらに南はなんの手がかりもなく。。また図書館に行って昔の地図を見せて頂いたりしながら、少しずつ調べていきたいと思っています。
あと。。少し 湖岸ラインシリーズは続きます。。
【琵琶湖岸ラインINDEX】
大津市歴史博物館のれきはく講座で、歩かれた「湖岸ライン」は前々回の場所まで
(湖岸ライン⑩)この先は、コメントを頂いたCHOKKOさんの情報と自分の想像での記事です。

明治28年の地図、右下の琵琶湖に浮かんでいるような場所が「琵琶湖の浮城」と言われた「膳所城」です。
1600年築城といいますから、安土桃山時代末期にはすでに存在していた事になります。
【琵琶湖岸ラインINDEX】
膳所城址は、「膳所公園」として整備され春には桜が綺麗に咲き乱れ、四季を通して市民の憩いの場となっています。

残念ながら幼い日に連れてきて貰った記憶はなく、1980年頃からの様子しかわからず、整備前の場所であるかどうかの判断がつきかねるのですが。


こんな感じは、当時のままの石垣なのではないかと思います。

膳所公園から石山方向に向かって伸びる遊歩道。その右に続く石垣も、きっと当初からのものではないかと思われます。



「あまりに綺麗すぎるんじゃないかなぁ?」と思いながら歩いていると、時代が違う石垣との境目があります。
きっと、これは安土桃山時代からの石垣。。
そう思いたいです。

遊歩道は瀬田の唐橋までさらに石山寺まで。。ずっと続きます。
【琵琶湖岸ラインINDEX】