電車を降りると、もうそこは観光客の波。
平日だというのに、どっと。。人が押し寄せている。
此処は、東海・関東地方の最大の観光地なのかもしれません。
西日本在住といえども、東日本との境界に近い場所ですが、どうしても「東」については 疎い、と実感します。
地名も文化も どうも体に馴染んでいません。
「熱海」という温泉街も、 架空の土地かのような感覚でした。
寛一お宮の、金色夜叉は 中学の文化祭でのクラスの出し物。私は 音響効果担当で、波の音を出すため、衣装箱の「こおり」に小豆を入れて、左右に動かしました。
~熱海のかい~がん~ ♪
「熱海」ってところへ行ってみたい。
でも、「さわり」だけとなりました。


熱海駅前にあった、随分と小ぶりな機関車。
まるで、遊園地の遊具のようです。
「熱海軽便鉄道」について調べてみました。
前身は「豆相人車鉄道」 明治28年(1895年)開通。小田原・熱海間を人力で車両を押す人車軌道でした。
なんとも原始的なものでしたが、明治40年(1907年)蒸気機関車牽引の軽便鉄道に切替、翌年には大日本軌道に買収。
大正13年(1924年) 全線廃止となりました。
温泉町ながらのも面白い鉄道史です。


駅舎は新しくなっても、熱海の鉄道の歴史を伝える、蒸気機関車が置かれているのは嬉しいことです。
感動の「根府川駅」から、西へ15分で「熱海駅」です。
去年の夏に箱根登山鉄道に行った時、小田原駅からの移動中に途中下車したかった駅です。
乗換のみだったけれど、その賑やかさ、計画中に調べた温泉町としての魅力を感じたいと思いました。
ところが今回は雨。
人も多く、思うように写真も撮れないままでした。


2015年に新駅舎となったそうで、ひと足遅かった。
それまで、大正14年(1925年)開業の駅舎が使われていました。
車窓に太平洋を望んでいると、すぐに「根府川駅」です。



ホーム上屋 迫る石垣 先に見える明るい水色の跨線橋。 雨に濡れたホームが、この駅への期待を高めてくれます。

跨線橋階段

突当りの柵の先には、大地が見えているというのは、珍しい構造。

ホームは谷の下、駅舎は谷の上。段差があるので ホームから上った跨線橋と同じ高さに駅舎があるのです。
ホームの前は海、駅舎からは海を見下ろせます。





電車を降りた時に高鳴った胸の鼓動は大正解。
派手すぎない水色に、エンジ色の瓦屋根。 丁度 見ごろを迎えた梅が さらに駅の美しさを引き立ててくれています。
なんたって、駅の向かい側は海です。

うまく写真が撮れたらいいのになぁと思うのはこんな景色に出会った時です。
綺麗なものは、どこから見ても、どこを見ても綺麗。


根府川駅の、跨線橋にも魅力を感じます。




素晴らしい駅に出会えました。五本の指に入る 私の好きな駅になりそうです。
こんな素晴らしい駅も、悲しい過去を持っています。
関東大震災により地滑りが発生。駅に進入中の列車が客車2両を残して駅舎、ホームもろとも海中に没。列車に乗車していた約110名とホームに居た20数名の計約130名がお亡くなりになられました。
今もなお 沖合の海底には当時のプラットホームが横たわっているのだそうです。
合掌。
大磯駅から 五つ目。
大磯駅と同じように、ゆったりとのんびりした駅です。
他方のローカル線のような寂しさが漂よっていないのは、本線の駅だからでしょうか。


大正11年(1922年)建築。
東海道本線にまだまだこのような歴史をもった駅舎が残っている事に気づいていませんでした。
まだまだ行きやすい場所にも、素晴らしい駅があるのです。
品川駅から1時間ばかり電車に揺られていると、車窓に太平洋がのぞめるようになり、開放的な空気が漂ってきます。


「大磯」と聞けば、大磯ロングビーチでの芸能人の水泳大会を連想、華やかで賑やかなイメージを描いていましたが、落ち着いた雰囲気の中に、オレンジ色の三角屋根洋風駅舎が佇んでいました。
すさまじい混雑の山手線 原宿駅から品川駅まで乗車し、人の流れのまま 出たのは 品川駅港南口。



高層ビルの一階が出入口となっています。
人の波に乗ると、一体どこに行きつくやらわからないと、すぐさま引き返します。

京浜急行への乗換口。
床や階段の感じは、昭和の頃の大阪駅に似ていると思うけれど、昭和の建築じゃないのでしょうか?


壁画も気になります。






手前 JR品川駅 斜め横のアーチ窓の建物が京急品川駅です。
人の多さに負けそうになったけれど、高輪口まで来て良かった。暖かな感じが漂っています。
関東の鉄道・駅舎については、まったくの素人で疎いので 申し訳ありません。
橋上駅になる以前のままの駅舎が残っているのではないかと思います。
9時を過ぎ、人の波は嘘のように落ち着いていました。
これから私は、サンライズ出雲で通ってきた鉄路を途中下車しながら東海道本線で、自宅へと向かいます。

サンライズ出雲で東京駅に到着。
山手線に乗換。
余裕で席につけるほどで、東京のラッシュ時って関西より楽かもしれない。ラッシュ時は増発しているのかもしれないと思いました。
東京をまったく知らない私です。
7時代の東京→原宿 山手線が空いていたのは、進行方向によるものなのか、偶然だったのかわかりませんが、やっぱり そんな甘いものではありませんでした。
原宿駅から品川駅まで山手線。
この混雑は半端ではありませんでした。
昔テレビてみたラッシュ時風景。駅員さんが人を押して電車に押し込んでるのではないかという位、ぐいぐいと人が押されてきます。
人と密着どころか立つためのスペースはしっかり自分で確保しないと倒れます。
電車がカーブすると、容赦なしに人に押されて、骨が折れるのではないかというくらいの力が加わります。息ができないくらいに 体が圧縮されます。
京都まで通勤していた事があるけれど、これほどの経験は一度もありませんでした。
東京を甘く見てはいけない!! と悟ったのですが。

品川駅でさらに人の多さに閉口。
青春18切符などという、自動改札を通れない切符は駅員さんのおられる所を通る必要があるのですが、そこへたどり着くのが至難の技。
人を横切れない。 最初から そっちへ進めば良かったのでしょうけど、はじめての駅で人の流れに沿うしかなかったんです。
「すまません」などと悠長な断りをしながら方向転換できるようなテンポで人は歩いていません。
なんとか、人をよけ、落ち着いてから改札を出たけれど、これまた人の流れに沿うしかなく。。
「うわぁ~ これが東京なんだ」
東京は何度目だったかなぁ。
オフコースのコンサートで武道館のある九段下への地下鉄駅の移動にもとまどったし。
ムーンライトながらで東京駅に着いてから「横須賀線」に乗るのもわかりませんでした。確か地下がホームでした。
ディズニーランドから、都電に乗るために朝に移動した時も人の波に圧倒されました。
1時間2時間に1本のローカル線を旅している私が、この迫力に着いていくのには、心しないといけません。
「原宿」という駅舎を見るためにここで下車したけれど、ここが新聞テレビで見聞きする「原宿」であり「竹下通口」なんて名称があることに、改めて驚きます。
ここが、あの 原宿? 竹下通?
まったくのお上りさんの視線でちょっと歩いてみます。
駅のまんまえが「竹下通」


朝7時代だからでしょう、サラリーマン、OLさんがちらほらと歩いておられるだけです。

100均の「DAISO」も、原宿にある。

「マツモトキヨシ」だってあります。
ちょっと ほっ。。としたけれど。

こんなにいっぱいの、クレープメニュー。
さすが原宿。

駅前にもどり少しあるくと「原宿アパートメント」という看板。
帰宅後調べ見ると 昭和33年(1958年)建築との事で、もう一歩進んで 見てくれば良かったと後悔。
一歩踏み出す勇気がないのが私の難所。こんなとき、ぷにょさんが一緒ならと。。

表参道口を南へ歩くとすぐ、神宮公園入口。

橋から原宿駅を見ると、遠くにスカイツリー。
至近距離ばかりを観察する癖のある私は、はじめて遠くにそびえるスカイツリーを見つけました。

ここが、あの東京であることに感動。
そうだなぁ。 山手線であちこち回ってみるのも面白そうです。
大正13年(1924年)竣工


右屋根の形が変わってる。
ハーフティンバー。
塔屋。
大正モダンを漂わせています。

日本の中心 東京駅から 山手線に乗って 原宿駅にやってきました。

ここへ来たのは、間もなく、この駅舎が解体されると聞いたからでした。


3月に入ったばかりだと言うのに、すでに重機が入っていて、解体は現実であることを実感しました。



こちらは、「竹下口」
自動改札と、低い天井・露出した廃線 大都会の駅でありながらも、古き良き時代から続いているのだと随所から感じられます。
竹下口から北方向には石垣が続いています。
原宿駅は明治39年(1906年) 現在地よりも代々木駅寄りにありましたが、当時からのものかもしれません。


ステンドグラスが配されています。
表参道口からの通路。
木の香のする低い天井。斜めにカットされた壁、屋根。
外観に加えた、粋なデザインは人々の心を高揚させていたのでしょう。







跨線橋。
安全のために少し手が加えられているのでしょう。


ホームから駅裏と、跨線橋を望んでみます。



青銅色の塔屋の上に風見鶏。
大都会に大正の時代から存在していたこの駅舎が間もなく消えてしまうことは、とても寂しいことです。