JR西日本 湖西線 「和邇駅」界隈 (滋賀県大津市)


 「るーむ木無」で福山聖子さんの絵画を見た後、あたりをぶらりと歩いてみました。
近世の定義によれば、大津市の札の辻から、湖西を通り敦賀までの「西近江路」(北国海道)が、ここ和邇駅あたりを通っています。

街道沿の雰囲気を今に残す、静かな町でした。

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道の真ん中の石碑。
通行の妨げになるような場所に強いて、建っているのはきっと何か謂れがあるのだろうと思い調べてみましたが、昭和43年建立。
 江戸時代、徳川幕府は全国の街道に一里塚を設けるように指示し、ここの一里塚にも榎の木を植えられ、「榎の宿」と呼ばれ、また近くの「天皇神社」ご神木として噂宗されていましたが、樹齢360年余で朽ち、昭和43年に神木榎と榎の宿を偲ぶ有志により「榎の顕彰碑」として建立されたとのことです。

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何故か、ビルの上に象がいたりしました。




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「小野妹子」つながりで、飛鳥時代の人をイメージしたデザインなのだそうです。

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[ 2016/11/29 20:50 ] ---まちあるき--- 滋賀県 | TB(0) | CM(8)

見慣れた風景ですが、yumeさんの解説があると
なんだか新鮮です。
[ 2016/11/29 21:44 ] [ 編集 ]

★タケヘイさん

何度も自転車で通られているのでしょうね。
丁度さきほど、タケヘイさんのブログ見に行ったんですよ。
[ 2016/11/29 21:52 ] [ 編集 ]

土曜日でも人がいませんね。湖西線が通るまえはすごくにぎやかだったそうです。
南草津歴史会で「吉祥さん」が案内してくれました。吉祥さんは和邇に住んでおられたそうです。湖西線が出来て、京都に近くなったのと、平和堂ができたので、全然お店ははやらないんです。
石碑を山に向っていくと途中から京都に向います。昔の人はよく通ったみたいです。
ルームぶなにいったときは和邇インターから降りてくると、この石碑に出会いました。
榎の宿だったそうです。
[ 2016/11/30 16:27 ] [ 編集 ]

★そば打ちおじさん

吉祥さんのお膝元なんですね♪
以前にるーむぶなに行った時は車で戸口まででしたし、今回初めての訪問。
こんないい雰囲気のところだとは知りませんでした。
さすが、福山さんが絵画展会場に選ばれるだけあるなぁって思いました。

今も歩いて京都に行けるのでしょうか。。
山道なんでしょうね。
[ 2016/11/30 20:43 ] [ 編集 ]

こんにちは。
何処もいっしょかと思うのですが淋しい商店街となりました。湖西線が出来るまでは賑やかなところだったんですがね。

魚屋さん、自転車、饅頭、パン、うどん屋、ハギレ、薬局、郵便局、酒屋、薬局、下駄屋、靴の修理屋、桶屋、時計屋、本屋に文房具、魚屋3軒、菓子屋も3軒まだまだありました。ようするにここに行ったら何でも一応取りそろえる事ができました。無いものが無いぐらいでした。24日の土曜もここを通りましたが無残なもんです。

延喜式に載っている駅家があったとこで歴史はめっちゃ古いです。
中学生の時ここから途中超えて、大原の三千院まで遠足で歩きました。まだデュークエイセスの歌が流行る前のことで有名になる前の事です。石の記念碑の所をまつすぐびわ湖向いて歩いて突き当りが、太湖汽船の港があったところで途中から炭を運んでやったそうです。

話せばなんぼでもあって終わらないのでこれだけにしておきます。お邪魔しましたね。
[ 2016/12/26 07:23 ] [ 編集 ]

★吉祥さん

吉祥さん こんばんは。
コメントありがとうございます、とっても嬉しいです。

おっしゃる町の賑わい。この風景から想像ができます。名残ありますものね。
本当 日本中どこもこんな感じ。量販店ができてしまったせいでしょうか。
それぞれのお店で、言葉を交わしながら、ひとつひとつの品物を大切に選んでいたあの時代 心豊かだった気がします。

ここから三千院までですか。。 かなりの距離ではないでしょうか?
途中越えになるのかな?

いつぞや、堅田あたりから、車で三千院に抜けた事がありましたが、三千院にこういう経路でたどりつくというのは、神秘的な気がしたものです。

またお話し聞かせてくださいね。
[ 2016/12/27 22:17 ] [ 編集 ]

スーパーが進出してから生活そのものが変わってしまいました。今更昔にはもどれないのですが、確かに昔の買い物風景はあたたかみがあったと思います。

途中越えになります。正確な距離の程は分かりませんがかなりあるのではないですか。あそこまでよう歩かしよったと思いますわ。

御存知かも知れませんが。
大正の10年ころに成立したのですが、鉄道敷設法という法律が布告されました。それによると湖西線を建設したのち和邇駅からこの途中越えで大原から八瀬を抜け、現在の国際会館ですから京都産業大学付近を通って山陰線の二条駅に繋ぐ新線が計画されていました。この法律は昭和62年国鉄解体まで存在していたのですが、国鉄がなくなって法律も自然消滅と言うか廃案になってしまいました。

建設自体は無理だったかも知れませんが夢のある法律ではなかったでしょうか。因みに同時に今津から国道307号線沿いに福井の上中の小浜線と結ぶ線の予定もあったみたいです。
より具体的なのは信楽線で信楽駅を延長して奈良線に接続する案もあつたようです。ほかにも全国いたる所にこの法律で計画されていた新線があつたみたいです。出来ないとしてもこの法律、今も残っていたらロマンを感じることができるのですがね。
[ 2016/12/30 08:52 ] [ 編集 ]

★吉祥さん

湖西線から京都市内に抜け、二条駅で山陰線とつなぐ計画ですか。。 知らなかったです。。
私鉄では、京阪が名古屋まで結ばれる計画もあったんですよね。
全国各地にあった鉄道計画。。
もし実現していたら、町の姿もずいぶんと違っていたでしょう。
全国どこへも、乗り継げば行けるような鉄道網。 夢のようです。

分割民営化が鉄道の歴史をかえてしまったとも言えますね。

また色々なお話し聞かせてくださいね。
[ 2017/01/04 20:29 ] [ 編集 ]

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